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終戦直後、戦災復興院(建設省の前身)の委嘱をうけたとき、私は率先して広島担当を申し出た。当時、草さえも一本も生えぬであろうなどとうわさされていた広島だったが、私はたとえわが身が朽ちるとも、というほどの思いで志願した。楽しい高校生活を送った土地であると同時に、父母をほぼ同時に失ったそのときに、大難を受けた土地であることに大いなる因縁を感じていたからである。
それから昭和24年(1949年)、広島市主催のコンペで一等に入選するまで、私たちはさまざまな側面からこの都市のあり方を問うては答えながら構想を固めていった。
私たちは考えた。
ここに設けられる施設は、広島の市民が、平和への意志を結束させるための施設としてコミュニティ・センターであることが望ましい。それはまず市民が集まるための広場と集会場を具えていなければならない。ここではまた国際的な会合を催すことができるであろう。それに加えて、コミュニティ・センターとして具えていなければならない会食の施設、図書室、展示室その他が必要であろう。とくにここでは原爆の資料室は常に記憶をあらたにするものであり、それがまた明日の平和への意志として働くものとなるであろう。これらが平和のために有効に働きうる施設であるにちがいない。

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